神社の由緒・歴史  

 はじめに

 「この神社はどのような由緒をもっていますか。」、「いつごろから現在の地で祀られていますか。」などのお尋ねをよくいただきます。
 残念ながら、このようなお尋ねにきちんとお答えできる史料は見当たりません。また、先代、先先代宮司からもうかがっておらず、この神社の歴史にくわしい古老もおられないのが実情です。まことに残念な気がします。
 そこで、この神社にかかわる古い伝承や、断片的な記録などを整理してみることで、神社の由来や歴史の概略がある程度わかるのではないかと考え、この項を起こすことにしました。
 もとより、私(現宮司)は、一介の神職に過ぎず、歴史の専門家ではありません。したがって、この項に記載の事項については正確でない点があるかと思いますが、ご批判、ご意見などを謙虚に受け止め、追い追い加除訂正を加えることで、この項の内容を充実して行きたいと考えています。また、次代の神職たちが受け継いで、一層充実したものにしてくれればと願っています。
 
神社の歴史年表」と併せてお読みいただければ、よろしいかと存じます。

 

1.伝承の時代(勧請の時期)

 一般に、この神社のような氏神神社は、遠い昔、村落の発生とともに自然に祀られようになった小祀(小さいほこら)が次第に発展して神社としての形態を整えるようになることが普通であったことから、多くの場合、神社の勧請(神を初めて祀ること)の時期は、明確ではありません。
 この神社についても、江戸時代の中期(元禄5年、1692年)に行われた公的な調査報告書「榎坂村・蔵人村寺社御改帳(以下、「榎坂・蔵人改帳」)において、すでに「勧請の時期は古いことであり分からない(右社勧請之年暦久遠ニ而知れ不申候)。」とされています。
 この神社に伝わる史料(由上文書と称しています。)及びその史料の編さん者(由上桂花氏、故由上兵太郎氏の雅号)が編さんされた「郷土史」には、以下のような記載があります。
 「記録伝わらざれば境内社殿等の由来沿革亦不詳なれど古老の口碑に依れば当神社の社殿は本村(榎坂村)大字垂水のうち広芝に在し神祠と小曽根村大字寺内に在しものと併合して現今の社殿とはなしぬると云ふ。然れども境内に数株の老松雲に聳ゆるあるを見るに其の星霜を経ること優に七八百年 如何に当神社の起源の宏遠なる事を語る。」とあります。
 七八百年前(鎌倉時代〜室町時代)とされていることに、確たる根拠は見当たりませんが、当地は早くからひらけ、摂関家から奈良の春日社に寄進された荘園(垂水西牧)であった歴史から考えて、そのような時代に創祀の芽生えがあった可能性はあります。
 前記の口碑については「大阪府全志」にも記載があります。「吹田市の近世神社建築 調査報告書」も、「大阪府全志」の口碑を引用しています。

 なお、昭和27年ごろに作成されたとみられる当神社の「神社明細書」には、神社の創立時期を元暦元年(1184年)五月とし、古人の伝承として、その頃に京都八坂神社の御分霊をお迎えし、嘉吉2年(1442年)に現在地に奉遷した旨の記述があります。しかし、そのような伝承の存在は今のところ確認できておりません。

 ※「大阪府全志」:井上正雄著
 ※「吹田市の近世神社建築 調査報告書」:吹田市立博物館博物館編 平成18年

2.江戸時代

 この時代になると、当時の様子を語る建造物、石造物、奉納絵馬などが現存の諸施設の中に多く見られるようになります。氏子地域の発展とともに、神社としての形態が整えられていったことがうかがえます。
 当時の神社の様子について、前記の「吹田市の近世神社建築 調査報告書」には、以下のように記述があります。
 「元禄5年頃、広大な境内地(四拾六間ニ百五間)をもち、本段、拝殿、石鳥居、宮道を備えていた(「榎坂・蔵人改帳」)。この内、本殿と石鳥居(天和三年銘)が現存する。従って、遅くとも江戸初期には社頭景観を整えていたとみられ、中世後期に創立されていたと考えられる。」
 「江戸時代、感神院あるいは牛頭天王社と称し、神宮寺(瑞泉寺)を併設していたが、明治の神仏分離後、現社名となる。拝殿の元禄十六年(1703年)の再建棟札には牛頭天王とあり、棟梁吉兵衛と道師の神宮寺僧「禅端沙門」の記がある。但し、この時の拝殿は現存しない。」
 この記述では言及されていませんが、「榎坂・蔵人改帳」には、「神主、禰宜、神子無御座、村中廻り持ニ神役等相勤申候」(神主、禰宜、神子(みこ)はおりませんので、村中が回り持ちで神主の役目を勤めております。)との記載があります。

 なお、前記記述中の「神宮寺」というのは、江戸時代以前においてみられた神仏習合思想の一つのあらわれであり、神道の神を仏法によって救済するために、神社に付属して建てられた寺院をいいます。全国的に神宮寺を付属した神社は多数ありましたが、明治初期の神仏分離令によって、廃絶されました。
 当時は神仏混淆の時代であり、当神社も仏教的な神であるインド渡来の神、牛頭天王をお祀りしていたことから、隣接する寺院(瑞泉寺、現松泉寺)との関係は深かったと考えられます。しかし、同寺院が「神宮寺」としての性格をもったものであったかどうかについては、確たる根拠は見当たりませんので、現段階では疑問であるとしておきます。

 この時代に、多数の絵馬が奉納され、旧拝殿の内壁面に掛けられていました。現在大小合わせて20数点の絵馬が残っていますが、その大多数は剥落が激しく、判別できないものがほとんどです。そのうち、痛みの少ないもの数点を選んで、現在の拝殿に掛けています。

 

 現在の本殿  昭和44年旧拝殿取り壊し時の本殿  表参道鳥居
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 旧拝殿  表参道鳥居の扁額 「感神宮」 扁額の元の文字 「感神院」の「院」
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3.明治初年から昭和20年ごろまでの時代

(1)神社名、御祭神御名の変更
 明治になる前は、この神社は「牛頭天王(ごずてんのう)社」あるいは「感神院」と呼ばれていました。牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神といわれ、インドから中国を経てわが国に渡来した神様です。神仏習合思想により、わが国の素盞嗚尊(スサノオノミコト)と同一視され、疫病除けの霊験がある神様として、北摂地方において広く祀られ、また京都の「祇園さん」で知られる八坂神社など有名な神社においても祀られてきました。
 
 明治初年、明治新政府は仏教的な思想や施設を全国の神社から無くし、神社はわが国古来からの神道によって祀られるべきであるとする神仏判然令を制定し、全国の神社から仏教色を排除しました。神仏習合思想では、「牛頭天王」はわが国古来の神様である素盞嗚尊と同一視されていたことから、ご祭神の御名を「素盞嗚尊」、神社名を素盞烏尊神社に変更しました。
 その際、鎮座地の名称(榎坂)を神社名とする選択もあったと思われますが、氏子地が榎坂(現江坂町)だけではなく、寺内(現若竹町)も含むことから、氏子地の名を神社名とするよりも、ご祭神の御名をもって神社名としたものであろうと推察されます。
 なお、同時に、表参道の鳥居の扁額に「感神院」とあったのを、これも仏教色を排除するために「感神宮」に改めました。

 ※当神社のご祭神の御名および神社名は、古くは「素盞烏尊」と表記していましたが、近年、当神社の「神社規則」および宗教法人の登記名に従い「素盞嗚尊」と表記するように改めました。どちらの表記も「スサノヲノミコト」と発音できることから、当神社では、どちらも正しい標記であるとしています。
(2)文書の保存
 この時代に作成された文書は多数残されており、明治27年の本殿屋根の檜皮の葺き替え許可願(大阪府知事宛)、前記屋根葺き替えの落成を祝い太鼓台を担ぎ出すための許可願(池田警察署宛)など。また、明治42年に旧社務所が建設された記録もあります。
なお、旧社務所は下境内に建てられ、昭和44年に現在の社務所を上境内に新築したことに伴い壊されました。

 綴り込まれた形式で残っているた文書として、
  ・往復雑件綴、往復書類綴(明治42年〜昭和11年)
  ・予算書綴、決算書綴(大正3年〜昭和20年)等があります。これらの書類は非常に丁寧かつ正確に作成され、当時の国家管理のもとで神社がきちんと管理運営されていたことがわかります。

 また、これらの文書によって、当時の社掌(現在の宮司)は次の方々であったことがわかります。いずれも、他に本務社をもつ兼務社掌であったと思われます。本務社がわからない方もおられます。
 明治27年ごろ       石川七郎氏(本務社不明)
 明治39年ごろ       西林兵次郎氏(本務社不明)
 明治42年〜大正6年     青木秀彦氏(本務社 垂水神社)
 大正7年〜大正11年     青木政生(同上)
 大正12年〜昭和11年     青木六郎氏(同上)
 昭和12年〜昭和19年ごろ  政家定次郎氏(本務社不明) 
 

文書の写真

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4.昭和20年ごろから現在に至る時代

 
昭和20年12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による「神道指令」に基づき、神社の国家管理が廃止されたました。そのせいかどうか分かりませんが、昭和20年以降の祭祀や管理運営の記録はほとんどありません。

(1)昭和44年の改築
 
昭和32年に兼務宮司として宮脇芳三氏(本務社泉殿宮)が就任され、同氏在任中の昭和44年、老朽化していた拝殿、社務所の改築が行われました。拝殿は元禄16年に再建された社殿を解体して同じ位置に新築し、社務所は明治42年に下境内に建てられてものを解体して上境内に新築するという大がかりなものでした。名目上は大阪万国博覧会が昭和45年に千里丘陵で開催されること、また同年が明治100年の佳節に当たることを記念するとされました。

 当時は、わが国経済の高度成長期にあたり大変景気が良かったこと、地元においては昭和44年に大阪市営地下鉄が江坂駅まで延長され、さらに江坂駅から千里の万国博覧会の会場に至る北大阪急行が延長され、江坂駅および緑地公園駅周辺の都市化が急速に進んだ時期でした。
 このような中で、神社の北東に隣接する地に公団江坂住宅地が開発され、その公園の一部として神社の境内地の一部を売却したことにより、まとまった収入が得られ、氏子の総意を得て改築を行ったものです。この改築によって、境内の景観が一変し、今日に至っています。

 当時境内に建てられ現存する改築記念碑には、以下の銘文が記されています。文章は当時の氏子総代由上兵太郎氏によるものと言われています。

 「当社は往古より榎阪 寺内の産土神として神威赫々 牛頭天王或は感神宮と称え 古く疫病祓除 旱魃救済 庶民守護の霊験あり
 神威遍ねく衆諸の崇敬厚く 即ち明治百年を迎え氏子の総意を以て茲に元禄十六年再建にかかる社殿を社務所と共に改築し 社頭の弥栄を祈るものである。  昭和四十四年五月吉日
」 
   

 旧社殿解体記念(昭和43年)  社殿落成記念(昭和44年5月)  落成社殿(昭和44年5月)
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 現在の拝殿  現在の拝殿  現在の社務所
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(2)太鼓神輿の修復、史料保存館の建設
 平成5年に江坂連合自治会の尽力によって太鼓神輿が修復され、その収納庫としての史料保存館が境内北西隅に建築されました。また、秋祭りにおける太鼓神輿の町内巡行が復活しました。この太鼓神輿は、平成21年に吹田市地域有形文化財、地域無形民俗文化財として登録されました。

 太鼓神輿  史料保存館(神輿倉庫)  
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(3)奉賛会の設立
 平成19年5月に奉賛会が設立されました。この奉賛会は、神社の諸施設の補修などに要する費用が年々増大し、神社会計を圧迫していることにかんがみ、氏子だけでなく、それ以外の皆様方にも広くお声をかけて会員になっていただき、お寄せいただく年会費をもって財源とし、毎年少しずつではありますが計画的・継続的に神社諸施設の補修等を行うことを趣旨としています。詳細については「奉賛会」の項をご覧ください。

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          奉賛会設立報告会(平成20年5月24日  江坂町公民館

 奉賛会記念碑除幕式(平成21年9月26日)   年会費納入者御芳名掲示板
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(4)この時期の神職
昭和20年  久田芳太郎氏 宮司代務者に就任。
昭和32年  宮脇芳三氏  兼務宮司に就任(本務社泉殿宮)
昭和45年  表 時男氏  禰宜に就任(表時男氏は、私(多田勝利)の岳父です。)
昭和54年  宮脇幸穂氏  兼務宮司に就任(本務社泉殿宮)
平成3年   多田利子   権禰宜に就任  
平成4年   多田勝利   権禰宜に就任
平成6年   表時男氏   宮司に就任
平成7年   多田勝利   禰宜に就任、
平成8年   多田勝利   宮司に就任、多田利子 禰宜に就任  

現在に至る。



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